NHK文化センター名古屋教室「易経」講座
10月から「沢天夬」を読み始め、3回目の9日で読み終えました。
この沢天夬の時がそのまま起こったような史実が、劇的な変貌を遂
げた明治維新前の幕末期である。また佐久間象山が殺される前に立
筮し自らの非業の最期を告げた卦としても有名です。
☆受講生の皆さまへ、
詳細な実録の現代訳は以下です。
【佐久間象山に非業の最期を告げた卦~幕末維新の人物】
佐久間象山が殺される前に自分で立筮して得た卦、「澤天夬」上爻。
本文
卦辞:「夬は、王庭に揚(あ)ぐ。孚(まこと)ありて号(さけ)び、あやうきことあり。」
上爻の爻辞:「号(さけ)ぶことなかれ。ついに凶あり。」
澤天夬~「夬(かい)」は「決する」、「切り開くこと」。決断の「決」も。
堤が決壊するという場合も、この「決」。
何かというと、スパッと決める。思い切ってバシッと決める。
それによって、余分なものを除き去るというのが「夬」のもともとの意味。
澤天夬は、陽気が壮んになってきている。
仮に陰を小人、陽を君子とみると、君子が伸びてきた。
本には、悪人を退治するとか、小人が亡ぼされるとか、
悪事が露見して周囲から切って捨てられるとか、酷いことが書かれている。
組織としてみたら、小人が一番上の位にいるように見える。
小人と君子に限らず、時の勢いというものがあって
君子であってもその時の勢いに勝てずに、滅ぼされる場合もある。
佐久間象山は小人どころか傑出した人物だが、澤天夬を得た。
澤天夬の上爻が、必ずしも小人とは限らない。
☆ ★ ☆
以下、佐久間象山の門人であった
北澤正誠・外務省書記官が、高島嘉右衛門に語った話。
佐久間象山先生は早くから洋学を教え、その傍ら、易学を門弟たちに説いていた。
私も、門下の一人だったので、しばしば先生の講説を聞けた。
あるとき、長州藩の吉田松陰氏が密かに洋行を図り、外国船での密出国を企てた。
先生はその志を大いに褒め称え、国を憂う悲憤慷慨の詩を作って送った。
松陰の企てが発覚するに及び、佐久間象山先生もまた
幕府の嫌疑を受け、江戸に幽閉させられ、後に本藩、信州松代に遷された。
時勢の変遷により
遂に先生の先見力・達識が大きく世に認められ、先生の難も自ずから解けた。
このとき長州侯が、佐久間象山先生の偉人であることを聞きつけ
木戸孝允氏を仲介して招聘しようとした。
象山先生は固く辞退して応じなかった。
また、薩州侯も先生の名高きを聞き、
西郷隆盛氏を仲介して招聘を図ったが
象山先生はまたもや固辞して応じなかった。
元治元年三月、一橋公(徳川慶喜)が使いを遣し、先生を召された。
佐久間象山先生は初めて応じた。
【弟子に勧められ立筮「澤天夬」を得る】
私(語り手の北澤正誠氏)は、これを聞いて先生にお会いして言った。
北澤:「先生が一橋公の命を奉じ上京される由。
先生は常に易をたしなみ、事あるに臨み必ず筮を執られますが、
今回はどのような卦でしたか」
先生曰く:
「易は事物の決断に迷う時に用いるものだ。
今や諸外国がわが国に迫り国は艱難の時。
士たる者、吉凶を問うべき所ではない。占筮は不要である。」
私(語り手の北澤正誠実氏)曰く:
「確かにそのとおりです。しかし、物事は決め付けてはならないと言います。
今回のことは大事の場合です。
易にぜひ、問いかけてください」
とうとう象山先生が筮を立て、得た卦は「沢天夬」の上爻でした。
卦辞:
「夬は、王庭に揚(あ)ぐ。孚(まこと)ありて号(さけ)び、あやうきことあり。」
上爻の爻辞:
「号(さけ)ぶことなかれ。ついに凶あり。」
象山先生曰く:
「夬の卦は凶だ。しかし、既に約束をした。今は内外多難の国事に挺身すべきだ。
慎重さを心するよりほかはない」
そう言って直ちに出立の準備を整えた。
馬の用意だけが間に合わなかったところへ、たまたま、木曽の馬商人が訪れた。
先生は素晴らしい駿馬を見つけ、喜んで高額な値を払い、手に入れた。
【佐久間象山、駿馬を得る】
手に入れた馬は、佐久間象山の意にかなった素晴らしい駿馬だった。
馬の名前は“都路(みやこじ)”。
都へ上る門出として、先生が自らつけた名前である。
先生は愛馬“都路”に跨り、美濃大垣に到着。
良友の戸田藩老である小原仁兵衛氏の邸に立ち寄った。
小原仁兵衛氏が先生の上京を祝い、世事の話になり、談論風発、すこぶる親密であった。
小原氏が先生に問う:
「先生は今、状況の途中ですが、今回の易は何の卦でしたか?」
先生曰く:「沢天夬の上爻です」
それを聞いた小原氏は、天を見上げ嘆息し、胸中を察する所があるがごとく
再び大きいため息をつき黙した。
【佐久間象山、愛馬の名を“王庭”と改める】
翌朝、佐久間象山先生は、小原仁兵衛氏に別れを告げ京都へ。
都では、公家や貴族の皆々が、
先生の名を聞くと直ちに賓客として礼を尽くして厚くもてなした。
ある日、中川ノ宮が先生を召した。
先生は中川ノ宮に、欧州の形勢や文武の整備を語っているうちに
騎兵についての事に話が及んだ。
酒席、まさにたけなわとなり、先生は西洋馬具が軽便なことを
中川ノ宮に知って欲しくなり、愛馬“都路”を庭前に牽かせた。
その庭前にて、象山先生が自ら、西洋式の馬術を見事に演じた。
中川ノ宮は大いに喜び賞賛して、さらに親しく酒盃を賜った。
象山先生は感激して曰く:
「私は卑賤より出でし者。殿下の寵遇をかたじけなく思います。
この喜び、人生の栄誉として、これに変わるものがありましょうか。
今、貴庭において馬術を演じ、鑑賞をしていただきました。
記念として愛馬の名“都路”を改め、“王庭”と名づけます」
※愛馬の名前に注目!!
【佐久間象山、愛馬“王庭”の馬上にて斃(たお)る】
厚く幾度もお礼をのべながら、象山先生は中川ノ宮邸を辞した。
名が改まったばかりの愛馬“王庭”に跨り、帰途についた。
三条木屋町筋に至ったその時、突然、待ち伏せしていた尊攘派浪士達が現れ
象山先生を取り囲み、襲った。
1864.7.11
佐久間象山先生、馬上にて斃る。
享年54歳。
私(語り手の北澤正誠・外務省書記官)は藩邸にいて、その訃報を聞いた。
後、佐久間家は断絶。
「沢天夬」卦辞:
夬は、王庭に揚(あ)ぐ。孚(まこと)ありて号(さけ)び、あやうきことあり。」
終わり
☆ ★ ☆
佐久間 象山(さくま しょうざん)
〔文化8年2月28日(1811.3.22)-元治元年7月11日(1864.8.12) 〕