佐久間象山の非業の最期を告げた卦~澤天夬

作成日:2016年11月11日

NHK文化センター名古屋教室「易経」講座
10月から「沢天夬」を読み始め、3回目の9日で読み終えました。
この沢天夬の時がそのまま起こったような史実が、劇的な変貌を遂
げた明治維新前の幕末期である。また佐久間象山が殺される前に立
筮し自らの非業の最期を告げた卦としても有名です。
☆受講生の皆さまへ、
 詳細な実録の現代訳は以下です。

【佐久間象山に非業の最期を告げた卦~幕末維新の人物】

 

佐久間象山が殺される前に自分で立筮して得た卦、「澤天夬」上爻。

本文

卦辞:「夬は、王庭に揚(あ)ぐ。孚(まこと)ありて号(さけ)び、あやうきことあり。」

上爻の爻辞:「号(さけ)ぶことなかれ。ついに凶あり。」

 

澤天夬~「夬(かい)」は「決する」、「切り開くこと」。決断の「決」も。

堤が決壊するという場合も、この「決」。

何かというと、スパッと決める。思い切ってバシッと決める。

それによって、余分なものを除き去るというのが「夬」のもともとの意味。

 

澤天夬は、陽気が壮んになってきている。

仮に陰を小人、陽を君子とみると、君子が伸びてきた。

本には、悪人を退治するとか、小人が亡ぼされるとか、

悪事が露見して周囲から切って捨てられるとか、酷いことが書かれている。

組織としてみたら、小人が一番上の位にいるように見える。

 

小人と君子に限らず、時の勢いというものがあって

君子であってもその時の勢いに勝てずに、滅ぼされる場合もある。

 

佐久間象山は小人どころか傑出した人物だが、澤天夬を得た。

澤天夬の上爻が、必ずしも小人とは限らない。

   ☆   ★   ☆

以下、佐久間象山の門人であった

北澤正誠・外務省書記官が、高島嘉右衛門に語った話。

 

佐久間象山先生は早くから洋学を教え、その傍ら、易学を門弟たちに説いていた。

私も、門下の一人だったので、しばしば先生の講説を聞けた。

あるとき、長州藩の吉田松陰氏が密かに洋行を図り、外国船での密出国を企てた。

先生はその志を大いに褒め称え、国を憂う悲憤慷慨の詩を作って送った。

 

松陰の企てが発覚するに及び、佐久間象山先生もまた

幕府の嫌疑を受け、江戸に幽閉させられ、後に本藩、信州松代に遷された。

時勢の変遷により

遂に先生の先見力・達識が大きく世に認められ、先生の難も自ずから解けた。

 

このとき長州侯が、佐久間象山先生の偉人であることを聞きつけ

木戸孝允氏を仲介して招聘しようとした。

象山先生は固く辞退して応じなかった。

 

また、薩州侯も先生の名高きを聞き、

西郷隆盛氏を仲介して招聘を図ったが

象山先生はまたもや固辞して応じなかった。

 

元治元年三月、一橋公(徳川慶喜)が使いを遣し、先生を召された。

佐久間象山先生は初めて応じた。

 

【弟子に勧められ立筮「澤天夬」を得る】

 

私(語り手の北澤正誠氏)は、これを聞いて先生にお会いして言った。

北澤:「先生が一橋公の命を奉じ上京される由。

   先生は常に易をたしなみ、事あるに臨み必ず筮を執られますが、

今回はどのような卦でしたか」

 

先生曰く:

「易は事物の決断に迷う時に用いるものだ。

今や諸外国がわが国に迫り国は艱難の時。

士たる者、吉凶を問うべき所ではない。占筮は不要である。」

 

私(語り手の北澤正誠実氏)曰く:

「確かにそのとおりです。しかし、物事は決め付けてはならないと言います。

 今回のことは大事の場合です。

易にぜひ、問いかけてください」

 

とうとう象山先生が筮を立て、得た卦は「沢天夬」の上爻でした。

 

卦辞:

「夬は、王庭に揚(あ)ぐ。孚(まこと)ありて号(さけ)び、あやうきことあり。」

 

上爻の爻辞:

「号(さけ)ぶことなかれ。ついに凶あり。」

 

象山先生曰く:

「夬の卦は凶だ。しかし、既に約束をした。今は内外多難の国事に挺身すべきだ。

 慎重さを心するよりほかはない」

 

そう言って直ちに出立の準備を整えた。

馬の用意だけが間に合わなかったところへ、たまたま、木曽の馬商人が訪れた。

先生は素晴らしい駿馬を見つけ、喜んで高額な値を払い、手に入れた。

【佐久間象山、駿馬を得る】

 

手に入れた馬は、佐久間象山の意にかなった素晴らしい駿馬だった。

馬の名前は“都路(みやこじ)”

都へ上る門出として、先生が自らつけた名前である。

 

先生は愛馬“都路”に跨り、美濃大垣に到着。

良友の戸田藩老である小原仁兵衛氏の邸に立ち寄った。

小原仁兵衛氏が先生の上京を祝い、世事の話になり、談論風発、すこぶる親密であった。

小原氏が先生に問う:

「先生は今、状況の途中ですが、今回の易は何の卦でしたか?」

先生曰く:「沢天夬の上爻です」

 

それを聞いた小原氏は、天を見上げ嘆息し、胸中を察する所があるがごとく

再び大きいため息をつき黙した。

 

【佐久間象山、愛馬の名を“王庭”と改める】

 

翌朝、佐久間象山先生は、小原仁兵衛氏に別れを告げ京都へ。

都では、公家や貴族の皆々が、

先生の名を聞くと直ちに賓客として礼を尽くして厚くもてなした。

 

ある日、中川ノ宮が先生を召した。

先生は中川ノ宮に、欧州の形勢や文武の整備を語っているうちに

騎兵についての事に話が及んだ。

 

酒席、まさにたけなわとなり、先生は西洋馬具が軽便なことを

中川ノ宮に知って欲しくなり、愛馬“都路”を庭前に牽かせた。

 

その庭前にて、象山先生が自ら、西洋式の馬術を見事に演じた。

中川ノ宮は大いに喜び賞賛して、さらに親しく酒盃を賜った。

 

象山先生は感激して曰く:

「私は卑賤より出でし者。殿下の寵遇をかたじけなく思います。

 この喜び、人生の栄誉として、これに変わるものがありましょうか。

 今、貴庭において馬術を演じ、鑑賞をしていただきました。

 記念として愛馬の名“都路”を改め、“王庭”と名づけます」

 

※愛馬の名前に注目!!

 

【佐久間象山、愛馬“王庭”の馬上にて斃(たお)る】

 

厚く幾度もお礼をのべながら、象山先生は中川ノ宮邸を辞した。

名が改まったばかりの愛馬“王庭”に跨り、帰途についた。

 

三条木屋町筋に至ったその時、突然、待ち伏せしていた尊攘派浪士達が現れ

象山先生を取り囲み、襲った。

1864.7.11

佐久間象山先生、馬上にて斃る。

享年54歳。

 

私(語り手の北澤正誠・外務省書記官)は藩邸にいて、その訃報を聞いた。

後、佐久間家は断絶。

 

「沢天夬」卦辞:

夬は、王庭に揚(あ)ぐ。孚(まこと)ありて号(さけ)び、あやうきことあり。」

 

                      終わり

 

   ☆   ★   ☆

 

佐久間 象山(さくま しょうざん)

〔文化8228(1811.3.22)-元治元年711(1864.8.12)

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